日々のモノゴト

Twitterには書ききれなかったことを書いていきます

続・コミュニケーションの「量」と「質」について

6月1日にコミュニケーションの「質」と「量」は役割がちがう、という記事を書きました。この記事に「具体的な例を教えてほしい」と反応をもらったので、もう少し深掘りしたいと思います。ぼくは「質」と「量」を下記のようにわけていました。

「質」を求めるコミュニケーションは何かを決めるときに向いています。「質」を求めるためには、ときにお互いの意見を批判し合うことが重要です。

一方、「量」を求めるコミュニケーションは発言のハードルを下げ、発言しやすい場をつくることが目的です。会話の中身は問わないので、批判せずに数を出し合うことが重要です。それぞれの具体例を紹介したいと思います。

「質」を求めるコミュニケーション

社会にでると「質」を求めるコミュニケーションを取ることが増えます。そもそも会議は何かを決める目的で開かれることが多いですし、何を決めるためには選択肢を削る作業が必要になります。

また創造的な作業においても「質」を求めるコミュニケーションが重要です。会議手法のひとつで、相手を批判せずに自由にアイデアを出し合うブレスト法があります。ブレストはアイデアを出し合う手法としては良いのですが、アイデアを形にする作業には「批判精神」が必要だと思います。

学生のころ5名~6名程度のグループを組んで、広告企画を考える大会に参加していたのですが、よくあるケースとして「ブレストでたくさんアイデアは出たけど、良さそうなものを組み合わせたら無難なものになった」というのがありました。こうした悩みは、いま仕事としているWebメディアのコンセプト作りなどでもよくあるケースです。

こうした場面で必要なのは「質」のコミュニケーションであり、そのためには誰かが深く考えたアイデアを批判し合うことが重要だと思います。

「量」を求めるコミュニケーション

一方、「量」を求めるコミュニケーションは中身を問いません。中身ではなく「量」が大事な役割だと思ったのは、コルクラボメンバーのSlackにある「おはようおやすみ」というチャンネルをみた時です。(コルクラボはコミュニティづくりを学ぶコミュニティで、約1年ほど前から参加しています)

最近、新しいメディアの形としてオンラインコミュニティ(サロン)が盛り上がっています。コルクラボでは、主催者と参加者が対立構造にならず、みんなが自発的に活動できるコミュニティを目指しています。しかし、いくつかのコミュニティに参加すると、この「参加者が自発的に」というのが異様に難しいことがわかります。

運営から参加者への一方通行のコミュニケーションは運営が頑張れば成り立ちます。しかし参加者を自発的に動かすためには、とにかく参加者が発言しやすい雰囲気づくりが大切です。そのためには、中身を問わない「量」のコミュニケーションが必要だというのが最近の気づきです。

「おはようおやすみ」チャンネルは、「おはよう、仕事に行ってくる」「疲れたー、おやすみ」などの雑談をつぶやく場所です。おそらく読んだ方は「え、何が楽しいのそれ」と感じると思うのですが、中身は関係ないのです。「量」による何でも話せる雰囲気づくりが、参加者の自発的なコミュニケーションにつながっています。

これはオンラインコミュニティだけではなく、職場というコミュニティでも同じではないかと最近よく思います。一緒に働くメンバーが相談しやすい雰囲気をつくるためには、意識してコミュニケーションの「量」に注目することも大事じゃないか、という話でした。

コミュニケーションの「質」と「量」は役割がちがう

1年ほど前から、「コルクラボ」というコミュニティづくりを学ぶコミュニティに所属しています。そこでコミュニティづくりを実践するなかで、コミュニケーションには「質」と「量」があると気づきました。

「質」のコミュニケーションは何かを決めるときに必要です。決断のためには、落とし穴がないかよく考えて話しますよね。時には意見をぶつけあいながら物事を前にすすめるのが「質」のコミュニケーションです。

一方で「量」のコミュニケーションは場の雰囲気をよくするために必要です。こちらは「量」が重要なので、内容は深く考えていない言葉でも大丈夫です。

言葉の量は、発言者のハードルを下げます。ハードルが下がると、コミュニティ内のメンバーが話しやすい雰囲気がうまれますよね。

話しやすい雰囲気ができれば、コミュニティ内のメンバーの個性をより知ることができますし、会話する頻度があがると情報共有もうまくいきます。

社会に出ると会議など「質」を求めるコミュニケーションの頻度が増えていきます。なので、ときには「量」を意識したコミュニケーションを設計することが大事なのでは、というお話でした。

正しさに関する、とりとめのない話

「ああ言えばこう言うなぁ」と昔から母親に言われていた。正しそうなことを言うのは気持ちが良いものだ。

世の中のモノゴトは、よく観察すれば白だか黒だかあいまいなことが多いけれど、表面だけみていれば、一見正しそうなことは比較的簡単に言える。

そもそも、本当に正しいことや上手く回っている仕組みは見えづらく、これは間違っていると非難できることの方が目に付きやすい。

気に入らないことがある度、正しい風なことを言って場を乱していた。そんな自分に嫌気がさし始めた学生時代に『祝婚歌』という詩に出会った。『祝婚歌』は、よく結婚式のスピーチに使われるらしい。最初から最後まで良い言葉なのだけど、正しさに関する部分が胸に残る。

正しいことを言うときは

少しひかえめにするほうがいい

正しいことを言うときは

相手を傷つけやすいものだと

気づいているほうがいい

立派でありたいとか

正しくありたいとかいう

無理な緊張には色目を使わず

ゆったりゆたかに

光を浴びているほうがいい

(吉野弘『祝婚歌』より一部引用)

何が正しいかは、状況や視点で変わるし、白と黒で割り切れないことの方が多い。心理学者のフロイトは、『大人になるということは、あいまいさを受け入れる能力を持つということ』だと言っている。処世術のようだけど、モノゴトの内部にある曖昧さに目を向けられる人になりたい。

そして、自分が正しいと思ったことを、少しひかえめに言えるひとでありたい。

とりとめのない話

すごく素敵なデザインテーマが公開されたので、ブログをはじめます。

凝ったデザインも良いですが、真っ白くてシンプルなデザインも好きです。なんだか白いキャンパスみたいで、何を書くかはその人次第みたいな。わくわくするテーマです。自分のことを書くのは気恥ずかしさがありますが、とりとめのない話を書こうと思います。